KSM×LOG|仕事や日々について考えたり感じたことを綴るブログ
雑感

ふざけることは重要!真面目にふざけることでつまらない場や退屈な時間に価値を与える

ふざけることは重要!真面目にふざけることでつまらない場や退屈な時間に価値を与える

昔から、ふざけるのは楽しいなと思ってます。

迷惑をかけたりするのはダメですけどね。

バカみたいな会話や冗談みたいな返しで、

笑っている時間ほど幸せな時はないと感じます。

つまらない、くだらない決まりやルールに従うよりも、

真面目にふざけることの方が、退屈なことより価値があると思います。

ふざけることで成立するならふざけたい

ふざけることで成立する場面とか、

少々、ふざけても大丈夫なシチュエーションであれば、

積極的にふざけていたいと思ってしまいます。

これは、子供のときから変わらない感覚です。

ふざけると言っても変なことをするというわけではなく、

ちょっとスパイスを利かせたり、踏み込んでみたり

のような、しても問題がないことなのに、

何となく躊躇してしまっているようなことをするという感じです。

例えば、知らない人が好きなバンドのT-シャツを着てたら、

おっそのT-シャツいいですね!

って声をかけたっていいじゃないか、と思うわけです。

おそらくなんだコイツ?って思われるんでしょうけど(笑)。

問題がないようなふざけであれば積極的にしていきたいと思っています。

ちょっとふざけるだけで面白いことは沢山ある

昔から、うわっ今ここでふざけたら面白いのにな

という場面が多くありましたが自粛していました。

仲間内であれば、ふざけている場面であったり、

知らない間柄でもふざけることで笑いが生まれる瞬間も、

何かよくわからない自粛で逃してきていたのです。

たまに、やってみたら、

お互い良い感じであったり、会話のきっかけになったり、

緊張がほぐれて打ち解けたり、とメリットがありました。

相手を見たり、空気を読む必要性はありますが、

ちょっとふざけることで良い効果があるわけです。

ただの退屈でつまらない気まずい時間も、

少し気の利いた一言やアクションで、

良い時間に生まれ変わることもあるなと感じたので、

隙あらば、真面目にふざけることを忘れないようにしています。

まぁ難しいことではあるんですけどね。

ふざける側も相手も余裕がないとふざけられない

ふざける側も心に余裕がないとふざけられませんし、

相手もふざけるを受け止める余裕がないと成立しません。

真面目にふざけるが失われている理由には、

余裕のなさ、という部分が大きく影響しているのでしょう。

また、ふざけるを受け止める度量は人によって違います。

面白いと受け止められる、受け止められないは、

人それぞれのキャパによるでしょうし、

精神的な状態にも左右される部分があります。

一方的にふざけても相手が苦痛であるならば、

成立しないので、お互いが思いやりを持って、

同じ価値観やベクトルにいることでようやく成立するのです。

その中でも余裕があるかないかが、

ふざける側にも受け止める側にも大きな影響を与えていると思います。

センスとか感覚の部分になるので、

誰しもってわけにはいかない部分なので、

相手を選ぶ許容範囲を探るってのはふざけるうえで大事ですね。

つまらない自己規制でふざけるを失っている

真面目にすることを否定しているのではなく、

真面目の中にふざけるは内包されている要素なのです。

どんなことにも面白さは潜んでいるはずなのに、

凝り固まった思考や変な自己規制で、

面白い発想や要素を見てみぬふりしているのです。

面白いことが嫌いなわけではないのに、

勝手にふざけてはいけない!と、

必要以上に自己規制をしている人が増えたのでしょう。

ユーモアを出すことを良しとしない慣習は、

社会に出ると多く感じますし、

ここでボケたら失礼なのだろうか?

という邪念も生じてしまうわけです。

場を和ましたり、ユーモアがあることを言うのは、

人間だけが持っている素晴らしい特性なのに、

社会生活では封印されがちな要素です。

退屈な会議や面談、退屈なイベントや挨拶、

という退屈であると誰もが感じていることを、

当たり前というか真面目にするとはこういうこと!

と謎の価値観で縛られているのです。

ふざけることで退屈さやつまらなさが緩和され、

皆が良いと思えるものになるのであれば、

なんの問題もないはずなのに、

間違った真面目という価値観のせいで、

ふざけることが自主規制されているように思います。

真面目な振る舞いはつまらない振る舞いをすることではない

ふざけるを自主規制してしまいチャンスを逃している、

ということも退屈になる原因ではありますが、

世の中が、真面目な振る舞い=つまらない振る舞いで可

みたいな感覚でいることも要因でしょう。

真面目な振る舞いはつまらない振る舞いをすることではありません。

つまらない振る舞いはつまらない振る舞いでしかないのです。

真面目な場だから、退屈でつまらなくても仕方ない

いやいや、それは退屈でつまらない場であって、

真面目な場だからって言い訳してんじゃねえよって話です。

もう多くの人や社会的な常識となってしまっているかもしれませんが、

根本的に真面目という舞台の概念が間違っている気がしますね。

ふざけることは不謹慎、ふざける場ではない、

という場面はあるとは思いますが、

真面目な場がつまらなくて退屈な場であるべき説明にはなっていないです。

というかね、

世の中に退屈でつまらない場や時間のような無価値なものっていらないわけですよ。

価値を持たすためにも真面目にふざけることで、

つまらない場や時間を無くそうと考えるべきではないでしょうか。

落語的なユーモアのあるふざけるこそが必要

家元の故・立川談志さんが言っていた、

酔っぱらってるな、と聞かれて、

酒が飲めねえからだ、と返す、

みたいな、ふざけた返しでも成立する世界観というか、

ああなるほどね、と納得した中にユーモアがあるやり取りのような、

ふざけるが必要になっているのではないでしょうか。

まぁこの返しの解釈は人それぞれできるでしょうけど(笑)。

真面目にふざけるということで粋な返しの応酬のような、

機転や頭の回転で気の利いたフレーズのやり取りを、

ふざけながら行えるような心のゆとりを多くの人が持てると良いなと思います。