愛社精神という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
そもそも愛社精神とは、読んで字のごとく、
勤めている会社やサービス、同僚などを愛す精神のことのようです。
この持てる気がしない愛社精神とか言う謎の価値観に何の意味があるのでしょう?
そもそも会社は愛する対象なのだろうか
愛社精神を考える前に、そもそも会社は愛する対象なのでしょうか。
一般的にというよりは、個人的に考えたほうがいいでしょう。
自分自身が会社を愛する対象であると考えている方は、
愛社精神を持つことができるのかもしれませんね。
個人的には会社を愛すという発想は基本的にないですね。
会社に所属する段階で対価として給与の見返りを求めているわけで、
愛というものが生まれる余地はない気がします。
そりゃこの会社は良いな、悪いな、程度の感情は沸きますが、
いつまで勤めるのかわからない、どのような扱いを受けるかわからない、
という、社員と言えども不安定な立場で愛なんて感情は持てませんし、
会社を愛する対象と考える方がおかしいのではないでしょうか。

愛社精神は強要できないものである
会社を愛するか否かは個々人の考えや感覚によるものなので、
愛社精神というものは強要することはできないでしょう。
いや、強要しているような会社はあるかもしれませんが、
本質的に愛社精神を持たすことは無理でしょうし、
できているとしたら、ある種の洗脳や脅迫めいた圧力などがあるのではないでしょうか。
愛社精神は本来は強要するものではありませんが、
愛社精神の押し売りや強要という愛からかけ離れた実態があるのかもしれません。
要は持つ人は持つし、持たない人は持たないってことですね。

愛社精神があると何か得があるのか?
愛社精神を持つことで何か得はあるのでしょうか。
持つことでというか、持てたら得は多少はあるかもしれません。
勤務している会社を愛せる状態であり、自然と愛社精神なるものを、
持っている方であれば、今勤めている会社や仕事が合っている、
日々が充実していてストレスも少ない状態であると考えられます。
また、愛社精神を持つことでよりモチベーションが高まったり、
仕事にプラスの影響を及ぼすこともなくはないでしょうから、
本当に愛社精神を持つことができたら得はあるとも言えるかもしれませんね。

愛社精神がないと問題があるのか?
逆に愛社精神がないことで問題は起きるのでしょうか?
ハッキリ言って仕事さえしっかりしていれば問題はないでしょう。
愛社精神があろうがなかろうが、会社への貢献は仕事や己の働きです。
ましてや俺は愛社精神がないぜ!と宣言する場も、
まわりの人にアイツは愛社精神がないよな、などと言われる状況はそうはないでしょう。
あるとしたら、愛社精神関係なくヤバい職場なので別の問題です。
特に愛社精神がなくても仕事をしっかりしていれば問題ありませんし、
優秀な方はより良い条件の仕事があれば転職するのもおかしな話ではありませんので、
普通に働くうえで愛社精神がなくても特に問題はないでしょう。
ですから、愛社精神が持てないと特に悩む必要もない気がします。
というか、個人的には愛社精神で悩んだことはないですね(笑)。

愛社精神を誤魔化しの道具にしてないか?
愛社精神を精神論的な誤魔化しの道具にしている部分が会社にはないでしょうか?
文句言わずにやれとか、いいからやれってことを、
愛社精神という言葉を用いたりして言い換えているだけになっていませんか?
都合の悪いことを愛社精神という名の忠誠心や帰属意識、
集団心理を利用して誤魔化すという行為は会社でありがちです。
みんな疑問に思っているようなことでも、昔からそうだからとか、
決まったことだから、みんなで我慢しましょうみたいな、
おかしなことや同調圧力に愛社精神をすり替えている会社は危険です。

愛社精神が歪んでダメな会社になってない?
愛社精神は一歩間違えれば危険な思想になる場合があります。
愛社精神という名の下でイエスマンの重用や、
現実逃避、耳が痛い意見は遠ざけたり臭いものに蓋をしていく、
という、ダメな会社になっていく可能性があります。
正論や忠告を言う人は愛社精神がない人間だ!という扱いを受け、
愛社精神がある無能たちが愛社精神の名の下で、
どんどん会社を破壊していくという構図はダメな会社の典型例です。
会社を動かす立場の人間が愛社精神というものを歪めて、
保身や現実逃避をしていくようになると会社として詰んでいきます。

愛社精神から非常識なカルト会社に繋がることもある
愛社精神が歪んで暴走が始まると、
カルト的な会社に変貌を遂げることがあります。
妄想や机上の空論が飛び交い現実逃避連発の日々。
不可能なことをやろうとしたり、思いつきに振り回されたり、
社内で対立構造になったり、足の引っ張り合いが起きたり、
と散々足る状態の中で社長はより暴走を深めていきます。
また、その社長に取り入ったりマウントしたい人間やイエスマンは、
もう愛社精神と言えるかは疑問ですが、沈みゆく船の中で威張っていたいので、
必死にすがり、愛社精神を語り、責任転嫁して保身するだけの、
どこに会社の利益があるようなことがあるのだろうか?
と思わしてくれるぐらいの狂いっぷりを見せてくれることになるのです。

愛社精神と聞くと負のイメージがよぎる理由
愛社精神がないことは問題ではないと語ってきましたが、
愛社精神を持つことは必ずしも悪い事であるわけでもありません。
ですが、愛社精神を歪めたり、愛社精神という名の圧力に変換したりと、
正しく愛社精神を育むことができている人や会社がどれぐらいいるかは疑問です。
愛社精神と聞くと負のイメージが若干脳裏をよぎったり、
体育会系的な根性論や精神論が強いイメージを持つ原因として、
愛社精神という言葉を利用しているだけに人や会社のせいでしょう。
本当に心から愛社精神を持てる会社は、
愛社精神などともいわずとも多くの社員から愛されているものですし、
愛される理由は、愛社精神を持て!と強要しているわけではないはずです。
愛社精神を隠れ蓑に暴走する会社であったり、
都合よく愛社精神を使っている会社だと感じるならば、
近いうちに会社自体が迷走していく可能性があるかもしれません。